火を見つめると人の心はどこかに帰るらしい
寝る前に揺れる炎を見つめるとよく眠れるという話を聞いた。
ネットで検索してみると、You Tubeにも癒やしの動画として数々の焚き火動画が上がっている。
パソコンやスマホで炎動画を見たところで、癒やされながらもブルーライトを正面から浴びてしまうので、そのへんと良質な睡眠との兼ね合いは一体どうなるのかという疑問はさておき、北海道旅行中はよくキャンプで焚き火をしていたが(正確には火を焚いていたのは弟)、たしかに連日爆睡であった。
炎やチラチラと光る木炭の燃えかすを見ていると、切ないような懐かしいような心を鷲掴みにされるような気持ちになるのはなぜだろう。
明日への希望とか反省とかじゃなく、もっとノスタルジーに溢れた温度感。
文明の発展は何はともあれ火から始まったわけであり、ほんの少し前まで火こそ夜の明かりだったのだから、人間の遺伝子レベルで刻まれた、郷愁に駆られるような何かがあるのだろう。
というわけで、緑に囲まれて火を見たいしお肉食べたいし爆睡したいしで、にわかにキャンプに目覚めているところである。
あと、テントは楽しいので今いちばん欲しい。
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キャンプで新しい自分が見つかるほど若くはないけど
コロナもあるので主要な観光地はあまり訪れることなく、主にキャンプや車中泊をしながら10日間の北海道旅を終えた。
序盤は雨が降ったり止んだりのどんよりした天候だったが、後半は晴れ間も見え出し寒くもなく、美味しいものを食べ、美しい景色を見、たくさんの話をする旅となった。
私の人生といえば、あるところで価値観、哲学、人生観とかそういった類のものが突然に180度一変していて、それから自分の本質とか過去とか人間関係とか、そのあたりの私を取り巻く諸々と今の自分との整合性について、私はずっと悩んできたように思う。
正直、いろいろなことが重なった挙句、にっちもさっちも行かなくなって、心療内科に通ったりもした。
蟻が蟻地獄に落ちればどんなに歩を進めても脱出できないのと同じように、私は私の精神を平坦な道に戻すことができなくなっていた。
蟻地獄にさえ落ちなければ、山も谷もなんとか乗り越えていくことができるのだ。
今回の旅は、弟のおかげもあって、精神の脱出を図る旅になった気がする。
抜け出せたかどうかは分からない。
未だ蟻地獄にいて、ただ平坦な道が少し近づいただけかもしれないし、蟻地獄を脱していたとしても、昔はたやすく越えられていた山や谷が、私の中でとてつもない山や谷に変貌しているのかもしれない。
それは、控えている私の長い人生にとって、ハンデになる。
しかし、この旅を思い出して、しばらくはここに立ち返ることができる。
これもやっぱり、宗教みたいなものだ。
かつて簡単に見つかっていた新しい自分みたいなものは、もうキャンプ程度では見つからない。
そう簡単にワクワクなんてしない。
そういう年齢になってしまったのだ。
それでもそういう私を理解して新しい道筋と希望を与えてくれた弟、ありがとう。
小説はセラピーみたいなもん
気持ちがゴチャついてくると、小説が必要になる。
話が現実離れしていればしているほどいい。
一見現実とはなんの関係もない嘘のような話も、現実世界の比喩であったりする。
小説を自分の現実と照らし合わせて憂さ晴らしをしたり悲しんだりすることに、責任はない。まるきりない。だから、誰にも気兼ねすることなく全ての感情を自由に行使することができる。
そういう意味で、私にとっての小説はセラピーみたいなものだ。宗教と呼んでもいいかもしれない。
小説でうまく感情が開放できると、不思議と現実が少し気楽になる。
そういう使い方をしているので、ストーリーの整合性とか史実への忠実さとか、あるいはスペクタクルとか大どんでん返しとか、そういうのをおそらくあまり求めていない。
実際、読了後すぐであってもストーリーにとって重要な出来事を忘れていたりするし、好きな小説でもどんな話か思い出せなかったりする。今のところ、ストーリーを楽しむ才能はそんなにないのだと思う。
それでも、爽快感や救いや優しさは残る。良質なセラピーであればあるほど、私の深層に蛍の光みたいな明かりが灯る。
小さな蛍の光も、集まると結構綺麗なものだ。
私の中で、いろいろな出来事を経て光は多くなったり少なくなったりする。その度合いで、小説を全然読まなくてもいられる時もあれば、どんどん読みたい時もある。
読む作家の幅は狭いし、何しろストーリーも忘れてしまうのだから、本好きなんてとても言えない。
しかし、多かれ少なかれ、作家は物語にそういう役割を与えているなーと思う。
小説、大変ありがたい。
物事に直接アクセスして行きたい。自分の感覚で。
知床をぐるりと回り、温泉に寄ったりしながら南下してきた。
霧多布や釧路、厚岸を経て、間もなく帯広。天気は概ね曇り。
道中は鹿や狐に山ほど遭遇。ヒグマが目撃されている地域もあった。
過去、札幌や小樽、函館、登別あたりは旅行してきたが、道東側は初めてである。
運転は弟に任せきりで車窓を眺めていると、そのほとんどは森か牧場か牧草地帯のどれかである。
点在するかまぼこ型の建物が可愛らしい。
車で走ると、ともかく北海道感がすごい。北海道そのものなのだから「感」も何もないけれど、ひたすらイメージ通りの北海道だ。
↑これは厚岸の牡蠣
本日もキャンプ。
深夜に雨が降らないことを祈りながら早目に眠りにつくとする。
おやすみなさい。
仏壇
コロナ禍ではあるが、密と他人との接触を極力避けながら、義父母の地元にあたる地方にやってきた。
義父が育った家と土地、今は誰も住んでいないので、年に数回は行って諸々整備しなければすぐに廃屋のようになってしまう。
古い住居の掃除や草むしりをしながら、この場所で代々暮らしてきた人たちのことを想う。
結婚した当初は、自分に全然関係のない場所を守るということや、その土地の文化や習慣が入ってくることが嫌だった。
18で上京し、アルバイトをし、大学を出、都心で働いて作ってきた自分自身が、かなりのペースで侵害されている気がしていた。
今でもその気分が完全に抜け切ったわけではないのだが、それでもこの土地に息づく歴史や風土を少し愛せるようになってきた。
この家の仏間に、先祖代々の写真がかけてある。
誰にも会ったことはない。
しかし、表情に性格が現れる。
認知症に片脚を突っ込みかけている義父に表出している全てがそこにある気がする。
結婚しなければ、こんなところ、知らなくてよかった。
結婚しなければ、知らないままだった。
この家は、私の家と、あまりにも異なる。
私は想像力を引っ張り出してきて、仏壇に手を合わせる。
それが、今の私の仕事なのだろうか。
カップヌードル抹茶
「カップヌードル抹茶〈抹茶仕立ての鶏白湯〉」なるもの。
スーパーのお誕生日席で推されてるのを発見して、抹茶好きとしては手を取らずにいられなかった逸品。
※スーパーのお誕生日席とは
お湯を注いで3分待ったらこんな感じ。
ほんのり緑色。そしていつもの謎肉じゃなくて謎鶏肉がゴロゴロ入っている。
その他、コーン、人参、ねぎなど。
肝心の味であるが、まろやかな鶏白湯スープと抹茶の渋みが絶妙にマッチしている。
カップヌードルといえばシーフード、そして学生時代にはカレーもよく食した思い出があるが、アッサリとした大人の深みを増したいお年頃の私にこれはうってつけである。
特に抹茶加減は絶妙で、お茶の味はしっかりするのだが、全体としては渋みよりまろやかさが勝っており鶏白湯を殺していない。
これは、しばらくハマる予感がする。