小説はセラピーみたいなもん
気持ちがゴチャついてくると、小説が必要になる。
話が現実離れしていればしているほどいい。
一見現実とはなんの関係もない嘘のような話も、現実世界の比喩であったりする。
小説を自分の現実と照らし合わせて憂さ晴らしをしたり悲しんだりすることに、責任はない。まるきりない。だから、誰にも気兼ねすることなく全ての感情を自由に行使することができる。
そういう意味で、私にとっての小説はセラピーみたいなものだ。宗教と呼んでもいいかもしれない。
小説でうまく感情が開放できると、不思議と現実が少し気楽になる。
そういう使い方をしているので、ストーリーの整合性とか史実への忠実さとか、あるいはスペクタクルとか大どんでん返しとか、そういうのをおそらくあまり求めていない。
実際、読了後すぐであってもストーリーにとって重要な出来事を忘れていたりするし、好きな小説でもどんな話か思い出せなかったりする。今のところ、ストーリーを楽しむ才能はそんなにないのだと思う。
それでも、爽快感や救いや優しさは残る。良質なセラピーであればあるほど、私の深層に蛍の光みたいな明かりが灯る。
小さな蛍の光も、集まると結構綺麗なものだ。
私の中で、いろいろな出来事を経て光は多くなったり少なくなったりする。その度合いで、小説を全然読まなくてもいられる時もあれば、どんどん読みたい時もある。
読む作家の幅は狭いし、何しろストーリーも忘れてしまうのだから、本好きなんてとても言えない。
しかし、多かれ少なかれ、作家は物語にそういう役割を与えているなーと思う。
小説、大変ありがたい。